のーと

Twitterの長くて正直なこと言ってる版みたいなものです

みらー

寝て起きてからいつも通りの駄文を書き散らそうかと思っていましたが、ちょっと緊急で書きたいことができてしまったのでいったんここにまとめておこうと思います。

少し整息はしたつもりですが、まだまだ感情的な部分が残っていてお見苦しい所や(あまり大っぴらにするつもりはありませんが)、ご都合の悪い方には目を覆いたくなるような表現、それはお前だってそうだろうと思うようなことを不快に表現している節があるかもしれません。でもそういうときだって大体お前自身にも返ってきているということを忘れるな。今すぐディスプレイの電源切って鏡見ろ。

多様性を認めない人間は視野狭窄に陥ってしまいがちになるとはよく言いますが、それでもどうしてもこれは違うだろうと思ったので書きます。あえて。

 

ここから少しの空白を置いて、本題に入ろうかと思います。それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

みなさんインターネットとはもう切っても切れないといってもいいような生活をお送りでいらっしゃいますよね?インターネット。便利ですね。こんな風に自分の言いたいことがすぐかけて、それがありとあらゆる場所、ありとあらゆる立場に置かれた人の目に映るかもしれない。それがインターネットのいいところです。しかもここ10年でその「言いたいこと」の言いやすさは格段に向上してきました。

 

と、同時に。

 

「言いたいこと」の水準はどんどん下がりました。

言いたいことが言いやすくなったことと言いたいことの水準が下がること。今僕はここに2つの軸をもって言いました。

 

それは

・「言いたいこと」を言う年齢層(精神的、リテラシー的にも)が低きに流れだしたこと

・各個人内で「言いたいこと」の「言いたさ」と「発信行為に至ること」の閾値がどんどん下がったこと

です。

 

もう細かいことはグダグダ言いません。その辺のことは自分で考えてください。わからなければネット使わない方がいいです。今すぐツイッターでもなんでもアカウント消してスマホSIMカード引っこ抜いてください。後にも書くと思いますが、免許制や法的規制措置をもっと取った方がいいと思うんですよね。ネット使うに際して。

 

で、単刀直入に僕が今何に一番異を唱えているかというと、

「今のインターネットには目立てばそれでいいと思っている環境が出来上がりすぎている」

ということです。

 

先にも書きましたが、特に昨今のインターネット環境にはあまりにも簡単に自分の言いたいことが大声で不特定多数に広がりうる環境が出来上がっています。でき過ぎています。

でもそれはあくまで、いいたいことや、自分の発信したいことが発信できるかどうか、という意味においてのみ適した環境構築です。

 

しかし。

 

致命的なことに、目的と手段をはき違えた阿呆が腐るほど僕の目の前には存在しています。今その場にいる目的をはき違えたしょうもない小学生みたいな、立食パーティに便所サンダルで参加するような、そんな義務教育レベル以下の頭と目ばっか肥やしたしょうもないサルが山ほどいるのです。この際二重表現などお構いなしで言いますが。

何がどう小学生並みなのか、現実世界に即して考えてみれば一瞬でわかるはずです。大体このネット上の環境だって(よほどの匿名性が保証され、かつ自分の匿名性を徹頭徹尾貫けるようなある意味安全な環境でない限り)現実世界と変わりありません。特にこれほどまでにツイッター毒の回ってしまった日本においてはもうヴァーチャルではない、人と人とのリアルなかかわりに即した関係性がネットで構築されてしまっています。(そのような意識すらない阿呆も山ほどいますが)

で、そんなこともわからない人がいるから僕はこんな文章を残してしまうほど不快な気分に苛まれたわけですが。

 

ガキ大将って覚えてますか?あるいは、授業と授業の間の休み時間に教室の後ろの方でひとりでに大きな声を上げたり、誰かを大声で揶揄ったりあだ名を呼んだり、もしくは、授業中に奇行を働き周囲の前で先生に大目玉を食らったりして、そんなことで周囲から意図的に笑いを起こさせたりする義務教育期間ならではの目立つ人種です。

僕もそんな奴らのことをあの頃は面白いと思っていました。実際そうやって社交性を磨いて将来的に(表に出る行動そのものは姿形を変えて)ああ、あの頃馬鹿やって楽しかったなんて言いながら社会で活躍していく人なんかも多いでしょう。別に僕はそいつらのことは全然嫌いじゃありません。少しうっとうしく感じたこともありますが。

要するに、あの頃はどういう形であれ目立っていれば話はよく通るようになるし、噂だっていっぱいされるようになるし、文字通り、音量的な意味で声さえ大きければ通る世の中だったわけです。

 

 

僕が嫌なのは

その社会ヒエラルキーを義務教育が終わっても、たとえその「社会」の広さが教室や廊下、学校を飛び出してたとえ世界中の規模になったとしても、いつまでもいつまでも是だとしている人たちです。その渦中にいる人も、その渦に加勢している有象無象も(特に後者が本当に)嫌いなのです。

 

わかっていただけましたかね。最初に僕は「インターネットは言いたいことを広域に対し手軽に言える場」だと言いました。そしてそれは2つの意味で発言の水準を下げていったと言いました。先に挙げたその2つのうち後者に関しては、使い方さえ誤らなければただの独り言で済みますし、火に油を注ぎこむこともないでしょう。だから問題視を含んだ言い方をすれば、「その「下がった水準」を悪用してムーブメントを起こせるようになった」と言えるでしょう。あまりしっくりくる言い方ではありませんが、後に書くことで説明がつくでしょう。そして、ここから話を広げますが、その「言いたいこと」が一定の正当な評価の下に価値を帯び、より多くの人に大きな声(重要なのは、これがボリュームではないということです)で言えるようになること。これが「インターネットの中の社会でできるようになったこと・理想版」です。一定の正当な評価の下に価値を帯びた人、とは、例えば社会的地位において大変優れた人(今では逆にこちらの方に、内実である発言価値が伴っていないと批判を浴びる世の中にさえなっています。その「批判している人たち」の発言価値はいったいどの程度保障されたものなのでしょうか。考えるまでもなくとんでもない皮肉ですね)、なにかに秀でた能力があると認められた人(絵なり歌唱なり芸能なり)、などがあげられるでしょう。

さっきの小学生の話でまとめてみましょうか。本来義務教育を終えた人たちが構成する社会で「声が大きく」あるべきなのは、あいつは字がうまいとか絵がうまいとかサッカーがうまいとか、詩が書けるとか、ものすごく頭がいいとか、あまりにも隙のない素晴らしい意見をさらっといえてしまうとか、そういうタイプで「目立ってきた」人たちです。決して先に挙げたようなただのお調子者ではありません(芸人はなんだかんだ言ってものすごく頭がよくないと生き残れませんし発言力が高まっていきません。なんといってもそれが芸として成立しているわけですからね)。

 

さて現実はどうでしょうか。

「ネット上で声を大きくする」という軸で見た場合、明らかに目的と手段がすり替わってさも当然とも言わんばかりの環境が出来上がってはいないでしょうか。少なくとも、僕の周りでは完成してしまっています。

 

それを代表するかのような事例が先ほど目の前で、起こったわけです。

所謂、犯罪自慢とそれをはやし立てる環境が出来上がり、言わずとも公然とそれが受け入れられる体制が整ってしまったんです。その瞬間を僕は見てしまいました。それを構成する要素がすべて僕の目の前で揃ってしまいました。情けなくて仕方がないです。

別にこれが飲み会とかで語られる武勇伝とかならいいんです。便所のネズミのクソ程も価値のない、何も学ばない無能の虚栄心を満たすための、風呂に浮かべた入浴剤よりも早く溶けてなくなるしょうもない話でしかないなら、僕もここまで嘆いたりはしません。

 

ですがインターネット上ではどうでしょうか。言うまでもありませんよね。その影響力と、持続力と言ったら。いつもみなさんの目の前にまざまざと突きつけられているわけですから。

 

渦中の当人が何を考えているのかは知りません。知りたくもありません。僕もこんなことを書きだす人間です。自己顕示欲と虚栄心に一定の理解はあるつもりなのでなんとなくわかってしまう気さえします。

けどそんなことよりも、そのような人間を面白いと感じて、はやし立ててしまう人間が同じ歳の人間、ましてや同じ学府の中に存在してしまったのです。しかも一人や二人ではありません。これはただならぬ悲しさです。僕も弱い人間なのでそんなことがあっても冗談半分でいなしてしまったのですが、あまりにも凄惨です。

別に渦中の当人のためを思っているとか、そういう老婆心でこれを書いているのではありません。あんなやつのことは本気でどうでもいいです。ただ、その周囲を取り巻いた環境のなかにはさすがに大切な友人が山ほどいます。そのエリアですらそのような悪目立ち主義がまかり通ってしまうこと自体が、これ以上なく悲しいのです。

 

僕は今までそんなものを(所謂ユーチューバーや"有名"ツイッタラーの大半はそんなクソみたいな虚栄心で注目を集めていますが)いろんなアカウントでごまんと見てきました。またそれをはやし立てる環境も。目の前で起こったこともあります。そのたびに嘆かわしい気持ちというか、僕がおかしいのかとも思ったりしていました。ですが今度という今度はあまりにも我慢ならないネタで我慢ならない笑われ方をしていたので、つい手が動いてしまいました。

 

自分にもそのような横島がないと言えば確かにうそになります。ただ無意識的にでも、こういう風景を見ると反吐が出る精神をもって育ってきたので、それをできるだけ(後の自分が読んでも)わかるように、思い出せるように残しておきます。自戒の意味も込めて。飲まれないように。

 

 

自分たちのしたこと、わかってるかなあ。