プリズムキューブ
するこん、ですって。
しかも4度目。つまり私たちが自分で自分のためのユニットを組み(本来そういうものなのだけど)、自分のために好きな人を使って自分のために少し長めに時間が使えるアレをやるときが、ついに自分の方へ回ってきたということです。そのためにわざわざこんなところにスペース作って書いているんですけどね。
あと、見に来てくださった方のために今のうちに断っておきますがたぶんめちゃくちゃ長いです。いや本当に。長いです。ただでさえ普段から書き散らかす癖があるのに今までの回顧なり感謝なり謝罪なり感想(?)なりひたすら書きなぐるので本当に長いです。ほら長いでしょ?ごめんなさい。もう前置きが長い。
まず、曲目から。
Track 1
from Y to Y/ジミーサムP
ボカロ曲です。もう八年も前の曲になります。はやい。
ジミーサムP自体が当時一番のハマりで、この曲をはじめとした「Yさん三部作(この曲/Pierrot/Calc.)」はどれもこころのなかのできるだけあまり触れてほしくない部分を鷲掴みにしてきます。平たく言えば、失恋ソングです。
今回は時間の都合上間奏カット、カットアウトにしました。原曲は5:40のエモエモレングスなので、ぜひ聴いてみてください。
実はこの曲、3年前に一回演ってます。他サークルで。というか所謂兼サーしてました。半年だけ。軽音系のやつ。
その時はがっつりバンド編成で、普通のライブハウスでキーボやってもらってピアノがメインって感じではあまりなかったのですが、せっかくならちゃんとしたピアノを演ってるサークルで、ピアノメインのこの曲をもう一回どこかで演奏したかった。あとは絶対にどこかで女性ボーカルを立てたかった。というかあの人を呼びたかった。(来てくださった方は見ての通り)それにちゃんと応えてくださったので本当に感謝しています(後でもう一回書きますが)。
さらに贅沢なことにシンセも入れてもらいました。ほとんど完コピしか頭にない(このサークルにとっては)非常につまらない野郎なりのこだわりです。おかげでドラムは変に片意地張って後半非常に迷惑をかけてます。この場を借りて、ごめんなさい。
これに限らず、単純にユニットの発起人になることが初めてだったためにいろんな面でずっと迷惑かけてきました。にもかかわらず計画段階からみんなが驚くほど協力的で、今まで見たことがないほどスイスイ話が進んでいくので感謝してもしきれない、とともに今までいかに自分が(進行の見かけ上)非協力的に見えていたかを猛省しました。
演奏面に関しても、ギターやシンセなどで原曲にはないくらいの粋な計らいをちりばめてもらいました。最初から同期でやる時間を作ろうと考えていましたが、正直言って想像よりずっと上のものができました。他の人の枠でも同期特有の空気感をもってやろうというところはあると思いますが、ここはここでいいものにしてくれたなという感慨があります。ありがとう。(あとは僕の腕次第...
特にボーカルとベースは(覚えている人がそもそもほとんどいないんじゃないかと思いますが)三年前同じするこんで舞台に立った人です。そういう意味でも僕にとってはすごくいい思い出のある人たちです。
変わらない気持ちで、また出会えたらいいね。
ついつい長くなってしまいますね。次行きましょう。
Track2
灰色と青/米津玄師 (+菅田将暉)
ついに私も歌ってしまいました。ごめんなさい。
するこんで自分の枠が振られるなら、どこかで歌ってみたいな(でも欲を言うならひとりはいやだな)という気持ちは1年前からあって、先々月Youtubeにこの曲が投稿された瞬間これは僕のために振ってきたのでは?と思うくらいあらゆる意味で完璧な曲が来たので、即決して(少しだけ逡巡したけど)もう一人のボーカルに声を掛けました。まあもともと彼を呼ばないで誰を呼ぶんだくらいに思っていたので、菅田将暉くんは彼にやってもらいました。
米津玄師も僕の魂の一部として体の中を巡る因子のひとつです。まさかこの曲が発表された当時はここまで町中の至る処を駆け巡る曲になるとは思っていなかったので正直焦りましたが(?)、ただそれ以前に僕の中を駆け回る不安定な塊をぶつけるにはうってつけの曲であり、僕もそのために声を振り絞ることができました。できてるといいな。音楽ってそういうものですよね。だといいな。
どれだけ背丈が変わろうとも、変わらない何かがありますように。
Track 3
ループ&ループ/ASIAN KUNG-FU GENERATION
この曲が一番最初に決まってました。客観的に情動的かどうかはさておき、個人的な事情によるものです。
この曲は僕が高校に入って初めてロックバンド編成で、ドラムとして演奏した曲です。当時のベーシストがアジカンファンで、そいつに誘われる形で始めたのが僕のそもそものちゃんとしたドラムとの接触でした。7年前から、この曲には個人的に何となくすべての終わりを飾るエンディングめいたものを感じていました。あの時とは環境も、メンバーも、考えていたこともすべてが変わった、変わってしまいましたが、その時その時で、その時のいいこと悪いことがあって、全体を見て正しいだの間違っているだのと決めつけることはできないんだなあと思います。
大学に入ったときは、後悔と失敗しかなかったからすべてを変えてやり直してやろうくらいの心持で過去を全否定していましたが、今こうして同じ曲を通して振り返ってみると案外わるいところだらけでもないことが今になってわかります。これは僕の生き方の問題でしょうが、どちらかに振り切って生きていこうとしてもうまくはいかないものなんですよね。この大学生活を振り返っても高校と同じくらいの反省点が出てきます。
まあ知ったこっちゃないですよね。でもこのサークルにも同じくらいアジカンにエモを感じてくれる人がいてよかったです。だからそういう人に歌ってもらいました。(少しイリーガルな)単純なバンド編成をこのサークルでさせてもらいました。
改めて思うことですが、自分で人を動かして好きな音楽をやってもらうってものすごいエゴとエネルギーが働いているなと思いました。自分から積極的にやりたい音楽を提示できる人のことを揶揄しているのではありません。むしろ全幅の尊敬をしています。しかし自分の願いをかなえてもらうためにいろんなことを自分のためにしてもらって、いろんなことを自分に合わせてもらって、聞いてもらって、という工程の最中は感謝より申し訳なさでいっぱいでした。そのくらい主体性のない人間であることはわかっていたのですが、気弱な出不精には思っていたよりハードルは高かったです。
ループ&ループの歌詞は「投げ出す」「頼りない」「終わる冬」「所詮」「弱い」とかマイナスワードの連発である種僕を象るにはおあつらえ向きなのですが、そこからの前の向き方、というより後ろを向いて後ろに歩けば前向きでしょうとでも言わんばかりの居直りぶりこそ僕の転換点に対する出発のヒントになっている気がします。完全に個人的な偏見による解釈ですが。野暮ですね。
ユニット名:プリズムキューブ/曲目欄:Unknown Mother-Goose(アンノウン・マザーグース)
両方とも僕の思想や音楽観の大部分を占めるwowakaによるボカロ曲です。
プリズムキューブはwowakaのボカロシーンでの活動における総決算となったアルバム「アンハッピーリフレイン」の最後のトラックに収録された曲で、ヒトリエとして活動している今でも稀に自らの手で演奏される曲です。(おそらく)「こころのはこ」をテーマにした、嘆きも含んだ終わりを思わせる歌です。あんまり細かいことは言うだけ野暮というやつで、歌詞にすべて書いてあるので暇な人は見てみてください。できれば曲も。
アンノウン・マザーグースはwowakaが「初音ミク10周年」を記念したアルバムのために6年ぶりに書き下ろしたボカロ曲です。
数多くの楽曲を世に送り出していながらこの曲で初めて「愛」をメインテーマとしていて、10年近い音楽活動を通して手に入れた喜怒哀楽を通して「愛を表現するとしたらどうやるのか」というような内容になってます。本旨はどうあれ僕自身の自問自答にもかなり近い内容になっています。これも詳しいことは歌詞を。できれば曲を。
両方とも再現性的な事由により(頭が固いので)演奏することはかないませんでしたが、どれも僕の言いたいことが詰まっていることに変わりはありません、しむしろいろいろ情報が詰め込めてお得かなと思っています。傲慢。
なんだかんだで僕のAPS員として過ごした側面の4年間はそろそろ終わります。このサークルを通じて出会った人、感じたもの、言ってきたことは僕の大学生活のかなり多くの部分を占めています。僕自体がサークルにいた事実など客観的には川面に小石を投げ込むより何も起きないくらいの無意味なことで、要するにピンからキリまでうるさいだけのモブだったわけですが、それでもいろんな人が話をしてくれて、たまに音楽をしてくれて、先輩方にも引っ張ってもらったり、とても素敵な場所、場面に連れて行ってくれました。
結局最後までなんやかんやと騒いで終わりなわけですが、そんな最後をしっかり用意してくれて、付き合ってくださった多くの方々には一生感謝します。
月並みですが、ここで得たもの、聞いたこと、聴いたもの、やったこと、できたこと、できなかったこと、後悔まで含めてすべて財産です。いろんな感情を手に入れたり、失ったり、僕は僕なりにぎりぎりまで濃い時間を過ごせました。ありがとうございました。
つまりはこれからもどうかよろしくね
みらー
寝て起きてからいつも通りの駄文を書き散らそうかと思っていましたが、ちょっと緊急で書きたいことができてしまったのでいったんここにまとめておこうと思います。
少し整息はしたつもりですが、まだまだ感情的な部分が残っていてお見苦しい所や(あまり大っぴらにするつもりはありませんが)、ご都合の悪い方には目を覆いたくなるような表現、それはお前だってそうだろうと思うようなことを不快に表現している節があるかもしれません。でもそういうときだって大体お前自身にも返ってきているということを忘れるな。今すぐディスプレイの電源切って鏡見ろ。
多様性を認めない人間は視野狭窄に陥ってしまいがちになるとはよく言いますが、それでもどうしてもこれは違うだろうと思ったので書きます。あえて。
ここから少しの空白を置いて、本題に入ろうかと思います。それでは。
さて。
みなさんインターネットとはもう切っても切れないといってもいいような生活をお送りでいらっしゃいますよね?インターネット。便利ですね。こんな風に自分の言いたいことがすぐかけて、それがありとあらゆる場所、ありとあらゆる立場に置かれた人の目に映るかもしれない。それがインターネットのいいところです。しかもここ10年でその「言いたいこと」の言いやすさは格段に向上してきました。
と、同時に。
「言いたいこと」の水準はどんどん下がりました。
言いたいことが言いやすくなったことと言いたいことの水準が下がること。今僕はここに2つの軸をもって言いました。
それは
・「言いたいこと」を言う年齢層(精神的、リテラシー的にも)が低きに流れだしたこと
・各個人内で「言いたいこと」の「言いたさ」と「発信行為に至ること」の閾値がどんどん下がったこと
です。
もう細かいことはグダグダ言いません。その辺のことは自分で考えてください。わからなければネット使わない方がいいです。今すぐツイッターでもなんでもアカウント消してスマホのSIMカード引っこ抜いてください。後にも書くと思いますが、免許制や法的規制措置をもっと取った方がいいと思うんですよね。ネット使うに際して。
で、単刀直入に僕が今何に一番異を唱えているかというと、
「今のインターネットには目立てばそれでいいと思っている環境が出来上がりすぎている」
ということです。
先にも書きましたが、特に昨今のインターネット環境にはあまりにも簡単に自分の言いたいことが大声で不特定多数に広がりうる環境が出来上がっています。でき過ぎています。
でもそれはあくまで、いいたいことや、自分の発信したいことが発信できるかどうか、という意味においてのみ適した環境構築です。
しかし。
致命的なことに、目的と手段をはき違えた阿呆が腐るほど僕の目の前には存在しています。今その場にいる目的をはき違えたしょうもない小学生みたいな、立食パーティに便所サンダルで参加するような、そんな義務教育レベル以下の頭と目ばっか肥やしたしょうもないサルが山ほどいるのです。この際二重表現などお構いなしで言いますが。
何がどう小学生並みなのか、現実世界に即して考えてみれば一瞬でわかるはずです。大体このネット上の環境だって(よほどの匿名性が保証され、かつ自分の匿名性を徹頭徹尾貫けるようなある意味安全な環境でない限り)現実世界と変わりありません。特にこれほどまでにツイッター毒の回ってしまった日本においてはもうヴァーチャルではない、人と人とのリアルなかかわりに即した関係性がネットで構築されてしまっています。(そのような意識すらない阿呆も山ほどいますが)
で、そんなこともわからない人がいるから僕はこんな文章を残してしまうほど不快な気分に苛まれたわけですが。
ガキ大将って覚えてますか?あるいは、授業と授業の間の休み時間に教室の後ろの方でひとりでに大きな声を上げたり、誰かを大声で揶揄ったりあだ名を呼んだり、もしくは、授業中に奇行を働き周囲の前で先生に大目玉を食らったりして、そんなことで周囲から意図的に笑いを起こさせたりする義務教育期間ならではの目立つ人種です。
僕もそんな奴らのことをあの頃は面白いと思っていました。実際そうやって社交性を磨いて将来的に(表に出る行動そのものは姿形を変えて)ああ、あの頃馬鹿やって楽しかったなんて言いながら社会で活躍していく人なんかも多いでしょう。別に僕はそいつらのことは全然嫌いじゃありません。少しうっとうしく感じたこともありますが。
要するに、あの頃はどういう形であれ目立っていれば話はよく通るようになるし、噂だっていっぱいされるようになるし、文字通り、音量的な意味で声さえ大きければ通る世の中だったわけです。
僕が嫌なのは
その社会ヒエラルキーを義務教育が終わっても、たとえその「社会」の広さが教室や廊下、学校を飛び出してたとえ世界中の規模になったとしても、いつまでもいつまでも是だとしている人たちです。その渦中にいる人も、その渦に加勢している有象無象も(特に後者が本当に)嫌いなのです。
わかっていただけましたかね。最初に僕は「インターネットは言いたいことを広域に対し手軽に言える場」だと言いました。そしてそれは2つの意味で発言の水準を下げていったと言いました。先に挙げたその2つのうち後者に関しては、使い方さえ誤らなければただの独り言で済みますし、火に油を注ぎこむこともないでしょう。だから問題視を含んだ言い方をすれば、「その「下がった水準」を悪用してムーブメントを起こせるようになった」と言えるでしょう。あまりしっくりくる言い方ではありませんが、後に書くことで説明がつくでしょう。そして、ここから話を広げますが、その「言いたいこと」が一定の正当な評価の下に価値を帯び、より多くの人に大きな声(重要なのは、これがボリュームではないということです)で言えるようになること。これが「インターネットの中の社会でできるようになったこと・理想版」です。一定の正当な評価の下に価値を帯びた人、とは、例えば社会的地位において大変優れた人(今では逆にこちらの方に、内実である発言価値が伴っていないと批判を浴びる世の中にさえなっています。その「批判している人たち」の発言価値はいったいどの程度保障されたものなのでしょうか。考えるまでもなくとんでもない皮肉ですね)、なにかに秀でた能力があると認められた人(絵なり歌唱なり芸能なり)、などがあげられるでしょう。
さっきの小学生の話でまとめてみましょうか。本来義務教育を終えた人たちが構成する社会で「声が大きく」あるべきなのは、あいつは字がうまいとか絵がうまいとかサッカーがうまいとか、詩が書けるとか、ものすごく頭がいいとか、あまりにも隙のない素晴らしい意見をさらっといえてしまうとか、そういうタイプで「目立ってきた」人たちです。決して先に挙げたようなただのお調子者ではありません(芸人はなんだかんだ言ってものすごく頭がよくないと生き残れませんし発言力が高まっていきません。なんといってもそれが芸として成立しているわけですからね)。
さて現実はどうでしょうか。
「ネット上で声を大きくする」という軸で見た場合、明らかに目的と手段がすり替わってさも当然とも言わんばかりの環境が出来上がってはいないでしょうか。少なくとも、僕の周りでは完成してしまっています。
それを代表するかのような事例が先ほど目の前で、起こったわけです。
所謂、犯罪自慢とそれをはやし立てる環境が出来上がり、言わずとも公然とそれが受け入れられる体制が整ってしまったんです。その瞬間を僕は見てしまいました。それを構成する要素がすべて僕の目の前で揃ってしまいました。情けなくて仕方がないです。
別にこれが飲み会とかで語られる武勇伝とかならいいんです。便所のネズミのクソ程も価値のない、何も学ばない無能の虚栄心を満たすための、風呂に浮かべた入浴剤よりも早く溶けてなくなるしょうもない話でしかないなら、僕もここまで嘆いたりはしません。
ですがインターネット上ではどうでしょうか。言うまでもありませんよね。その影響力と、持続力と言ったら。いつもみなさんの目の前にまざまざと突きつけられているわけですから。
渦中の当人が何を考えているのかは知りません。知りたくもありません。僕もこんなことを書きだす人間です。自己顕示欲と虚栄心に一定の理解はあるつもりなのでなんとなくわかってしまう気さえします。
けどそんなことよりも、そのような人間を面白いと感じて、はやし立ててしまう人間が同じ歳の人間、ましてや同じ学府の中に存在してしまったのです。しかも一人や二人ではありません。これはただならぬ悲しさです。僕も弱い人間なのでそんなことがあっても冗談半分でいなしてしまったのですが、あまりにも凄惨です。
別に渦中の当人のためを思っているとか、そういう老婆心でこれを書いているのではありません。あんなやつのことは本気でどうでもいいです。ただ、その周囲を取り巻いた環境のなかにはさすがに大切な友人が山ほどいます。そのエリアですらそのような悪目立ち主義がまかり通ってしまうこと自体が、これ以上なく悲しいのです。
僕は今までそんなものを(所謂ユーチューバーや"有名"ツイッタラーの大半はそんなクソみたいな虚栄心で注目を集めていますが)いろんなアカウントでごまんと見てきました。またそれをはやし立てる環境も。目の前で起こったこともあります。そのたびに嘆かわしい気持ちというか、僕がおかしいのかとも思ったりしていました。ですが今度という今度はあまりにも我慢ならないネタで我慢ならない笑われ方をしていたので、つい手が動いてしまいました。
自分にもそのような横島がないと言えば確かにうそになります。ただ無意識的にでも、こういう風景を見ると反吐が出る精神をもって育ってきたので、それをできるだけ(後の自分が読んでも)わかるように、思い出せるように残しておきます。自戒の意味も込めて。飲まれないように。
自分たちのしたこと、わかってるかなあ。
さいこ
くらうど
あいどらー
- 低血圧(起き抜けの食後で上100超えません)
- 低血糖(特に夏場、お茶飲むとふらふらしだします、
特に烏龍茶はめまいがします) - 貧血(立ちくらみとお友達)
こんせんと
はじめに
こんにちは。時候の挨拶というものは難しいもので、とかく普段から日本語を話そうにもとりあえず僕なりに思い付いた並びでしか文字を書くことも話すこともできないので、なかなか伝えるというのは難しいと感じます。こんな書き出しをしている段階で、察して下さい。