のーと

Twitterの長くて正直なこと言ってる版みたいなものです

プリズムキューブ

するこん、ですって。

しかも4度目。つまり私たちが自分で自分のためのユニットを組み(本来そういうものなのだけど)、自分のために好きな人を使って自分のために少し長めに時間が使えるアレをやるときが、ついに自分の方へ回ってきたということです。そのためにわざわざこんなところにスペース作って書いているんですけどね。

あと、見に来てくださった方のために今のうちに断っておきますがたぶんめちゃくちゃ長いです。いや本当に。長いです。ただでさえ普段から書き散らかす癖があるのに今までの回顧なり感謝なり謝罪なり感想(?)なりひたすら書きなぐるので本当に長いです。ほら長いでしょ?ごめんなさい。もう前置きが長い。

 

 

 

まず、曲目から。

 

 

Track 1

from Y to Y/ジミーサムP

 

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ボカロ曲です。もう八年も前の曲になります。はやい。

ジミーサムP自体が当時一番のハマりで、この曲をはじめとした「Yさん三部作(この曲/Pierrot/Calc.)」はどれもこころのなかのできるだけあまり触れてほしくない部分を鷲掴みにしてきます。平たく言えば、失恋ソングです。

今回は時間の都合上間奏カット、カットアウトにしました。原曲は5:40のエモエモレングスなので、ぜひ聴いてみてください。

 

実はこの曲、3年前に一回演ってます。他サークルで。というか所謂兼サーしてました。半年だけ。軽音系のやつ。

その時はがっつりバンド編成で、普通のライブハウスでキーボやってもらってピアノがメインって感じではあまりなかったのですが、せっかくならちゃんとしたピアノを演ってるサークルで、ピアノメインのこの曲をもう一回どこかで演奏したかった。あとは絶対にどこかで女性ボーカルを立てたかった。というかあの人を呼びたかった。(来てくださった方は見ての通り)それにちゃんと応えてくださったので本当に感謝しています(後でもう一回書きますが)。

さらに贅沢なことにシンセも入れてもらいました。ほとんど完コピしか頭にない(このサークルにとっては)非常につまらない野郎なりのこだわりです。おかげでドラムは変に片意地張って後半非常に迷惑をかけてます。この場を借りて、ごめんなさい。

これに限らず、単純にユニットの発起人になることが初めてだったためにいろんな面でずっと迷惑かけてきました。にもかかわらず計画段階からみんなが驚くほど協力的で、今まで見たことがないほどスイスイ話が進んでいくので感謝してもしきれない、とともに今までいかに自分が(進行の見かけ上)非協力的に見えていたかを猛省しました。

演奏面に関しても、ギターやシンセなどで原曲にはないくらいの粋な計らいをちりばめてもらいました。最初から同期でやる時間を作ろうと考えていましたが、正直言って想像よりずっと上のものができました。他の人の枠でも同期特有の空気感をもってやろうというところはあると思いますが、ここはここでいいものにしてくれたなという感慨があります。ありがとう。(あとは僕の腕次第...

特にボーカルとベースは(覚えている人がそもそもほとんどいないんじゃないかと思いますが)三年前同じするこんで舞台に立った人です。そういう意味でも僕にとってはすごくいい思い出のある人たちです。

 

 

変わらない気持ちで、また出会えたらいいね。

 

 

ついつい長くなってしまいますね。次行きましょう。

 

 

 

 

 

Track2

灰色と青/米津玄師 (+菅田将暉

 

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ついに私も歌ってしまいました。ごめんなさい。

するこんで自分の枠が振られるなら、どこかで歌ってみたいな(でも欲を言うならひとりはいやだな)という気持ちは1年前からあって、先々月Youtubeにこの曲が投稿された瞬間これは僕のために振ってきたのでは?と思うくらいあらゆる意味で完璧な曲が来たので、即決して(少しだけ逡巡したけど)もう一人のボーカルに声を掛けました。まあもともと彼を呼ばないで誰を呼ぶんだくらいに思っていたので、菅田将暉くんは彼にやってもらいました。

米津玄師も僕の魂の一部として体の中を巡る因子のひとつです。まさかこの曲が発表された当時はここまで町中の至る処を駆け巡る曲になるとは思っていなかったので正直焦りましたが(?)、ただそれ以前に僕の中を駆け回る不安定な塊をぶつけるにはうってつけの曲であり、僕もそのために声を振り絞ることができました。できてるといいな。音楽ってそういうものですよね。だといいな。

 

 

 

どれだけ背丈が変わろうとも、変わらない何かがありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Track 3

ループ&ループ/ASIAN KUNG-FU GENERATION

 

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この曲が一番最初に決まってました。客観的に情動的かどうかはさておき、個人的な事情によるものです。

この曲は僕が高校に入って初めてロックバンド編成で、ドラムとして演奏した曲です。当時のベーシストがアジカンファンで、そいつに誘われる形で始めたのが僕のそもそものちゃんとしたドラムとの接触でした。7年前から、この曲には個人的に何となくすべての終わりを飾るエンディングめいたものを感じていました。あの時とは環境も、メンバーも、考えていたこともすべてが変わった、変わってしまいましたが、その時その時で、その時のいいこと悪いことがあって、全体を見て正しいだの間違っているだのと決めつけることはできないんだなあと思います。

大学に入ったときは、後悔と失敗しかなかったからすべてを変えてやり直してやろうくらいの心持で過去を全否定していましたが、今こうして同じ曲を通して振り返ってみると案外わるいところだらけでもないことが今になってわかります。これは僕の生き方の問題でしょうが、どちらかに振り切って生きていこうとしてもうまくはいかないものなんですよね。この大学生活を振り返っても高校と同じくらいの反省点が出てきます。

まあ知ったこっちゃないですよね。でもこのサークルにも同じくらいアジカンにエモを感じてくれる人がいてよかったです。だからそういう人に歌ってもらいました。(少しイリーガルな)単純なバンド編成をこのサークルでさせてもらいました。

 

改めて思うことですが、自分で人を動かして好きな音楽をやってもらうってものすごいエゴとエネルギーが働いているなと思いました。自分から積極的にやりたい音楽を提示できる人のことを揶揄しているのではありません。むしろ全幅の尊敬をしています。しかし自分の願いをかなえてもらうためにいろんなことを自分のためにしてもらって、いろんなことを自分に合わせてもらって、聞いてもらって、という工程の最中は感謝より申し訳なさでいっぱいでした。そのくらい主体性のない人間であることはわかっていたのですが、気弱な出不精には思っていたよりハードルは高かったです。

 

ループ&ループの歌詞は「投げ出す」「頼りない」「終わる冬」「所詮」「弱い」とかマイナスワードの連発である種僕を象るにはおあつらえ向きなのですが、そこからの前の向き方、というより後ろを向いて後ろに歩けば前向きでしょうとでも言わんばかりの居直りぶりこそ僕の転換点に対する出発のヒントになっている気がします。完全に個人的な偏見による解釈ですが。野暮ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

ユニット名:プリズムキューブ/曲目欄:Unknown Mother-Goose(アンノウン・マザーグース)

両方とも僕の思想や音楽観の大部分を占めるwowakaによるボカロ曲です。

プリズムキューブはwowakaのボカロシーンでの活動における総決算となったアルバム「アンハッピーリフレイン」の最後のトラックに収録された曲で、ヒトリエとして活動している今でも稀に自らの手で演奏される曲です。(おそらく)「こころのはこ」をテーマにした、嘆きも含んだ終わりを思わせる歌です。あんまり細かいことは言うだけ野暮というやつで、歌詞にすべて書いてあるので暇な人は見てみてください。できれば曲も。

アンノウン・マザーグースはwowakaが「初音ミク10周年」を記念したアルバムのために6年ぶりに書き下ろしたボカロ曲です。

数多くの楽曲を世に送り出していながらこの曲で初めて「愛」をメインテーマとしていて、10年近い音楽活動を通して手に入れた喜怒哀楽を通して「愛を表現するとしたらどうやるのか」というような内容になってます。本旨はどうあれ僕自身の自問自答にもかなり近い内容になっています。これも詳しいことは歌詞を。できれば曲を。

両方とも再現性的な事由により(頭が固いので)演奏することはかないませんでしたが、どれも僕の言いたいことが詰まっていることに変わりはありません、しむしろいろいろ情報が詰め込めてお得かなと思っています。傲慢。

 

 

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なんだかんだで僕のAPS員として過ごした側面の4年間はそろそろ終わります。このサークルを通じて出会った人、感じたもの、言ってきたことは僕の大学生活のかなり多くの部分を占めています。僕自体がサークルにいた事実など客観的には川面に小石を投げ込むより何も起きないくらいの無意味なことで、要するにピンからキリまでうるさいだけのモブだったわけですが、それでもいろんな人が話をしてくれて、たまに音楽をしてくれて、先輩方にも引っ張ってもらったり、とても素敵な場所、場面に連れて行ってくれました。

結局最後までなんやかんやと騒いで終わりなわけですが、そんな最後をしっかり用意してくれて、付き合ってくださった多くの方々には一生感謝します。

 

月並みですが、ここで得たもの、聞いたこと、聴いたもの、やったこと、できたこと、できなかったこと、後悔まで含めてすべて財産です。いろんな感情を手に入れたり、失ったり、僕は僕なりにぎりぎりまで濃い時間を過ごせました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまりはこれからもどうかよろしくね

 

みらー

寝て起きてからいつも通りの駄文を書き散らそうかと思っていましたが、ちょっと緊急で書きたいことができてしまったのでいったんここにまとめておこうと思います。

少し整息はしたつもりですが、まだまだ感情的な部分が残っていてお見苦しい所や(あまり大っぴらにするつもりはありませんが)、ご都合の悪い方には目を覆いたくなるような表現、それはお前だってそうだろうと思うようなことを不快に表現している節があるかもしれません。でもそういうときだって大体お前自身にも返ってきているということを忘れるな。今すぐディスプレイの電源切って鏡見ろ。

多様性を認めない人間は視野狭窄に陥ってしまいがちになるとはよく言いますが、それでもどうしてもこれは違うだろうと思ったので書きます。あえて。

 

ここから少しの空白を置いて、本題に入ろうかと思います。それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

みなさんインターネットとはもう切っても切れないといってもいいような生活をお送りでいらっしゃいますよね?インターネット。便利ですね。こんな風に自分の言いたいことがすぐかけて、それがありとあらゆる場所、ありとあらゆる立場に置かれた人の目に映るかもしれない。それがインターネットのいいところです。しかもここ10年でその「言いたいこと」の言いやすさは格段に向上してきました。

 

と、同時に。

 

「言いたいこと」の水準はどんどん下がりました。

言いたいことが言いやすくなったことと言いたいことの水準が下がること。今僕はここに2つの軸をもって言いました。

 

それは

・「言いたいこと」を言う年齢層(精神的、リテラシー的にも)が低きに流れだしたこと

・各個人内で「言いたいこと」の「言いたさ」と「発信行為に至ること」の閾値がどんどん下がったこと

です。

 

もう細かいことはグダグダ言いません。その辺のことは自分で考えてください。わからなければネット使わない方がいいです。今すぐツイッターでもなんでもアカウント消してスマホSIMカード引っこ抜いてください。後にも書くと思いますが、免許制や法的規制措置をもっと取った方がいいと思うんですよね。ネット使うに際して。

 

で、単刀直入に僕が今何に一番異を唱えているかというと、

「今のインターネットには目立てばそれでいいと思っている環境が出来上がりすぎている」

ということです。

 

先にも書きましたが、特に昨今のインターネット環境にはあまりにも簡単に自分の言いたいことが大声で不特定多数に広がりうる環境が出来上がっています。でき過ぎています。

でもそれはあくまで、いいたいことや、自分の発信したいことが発信できるかどうか、という意味においてのみ適した環境構築です。

 

しかし。

 

致命的なことに、目的と手段をはき違えた阿呆が腐るほど僕の目の前には存在しています。今その場にいる目的をはき違えたしょうもない小学生みたいな、立食パーティに便所サンダルで参加するような、そんな義務教育レベル以下の頭と目ばっか肥やしたしょうもないサルが山ほどいるのです。この際二重表現などお構いなしで言いますが。

何がどう小学生並みなのか、現実世界に即して考えてみれば一瞬でわかるはずです。大体このネット上の環境だって(よほどの匿名性が保証され、かつ自分の匿名性を徹頭徹尾貫けるようなある意味安全な環境でない限り)現実世界と変わりありません。特にこれほどまでにツイッター毒の回ってしまった日本においてはもうヴァーチャルではない、人と人とのリアルなかかわりに即した関係性がネットで構築されてしまっています。(そのような意識すらない阿呆も山ほどいますが)

で、そんなこともわからない人がいるから僕はこんな文章を残してしまうほど不快な気分に苛まれたわけですが。

 

ガキ大将って覚えてますか?あるいは、授業と授業の間の休み時間に教室の後ろの方でひとりでに大きな声を上げたり、誰かを大声で揶揄ったりあだ名を呼んだり、もしくは、授業中に奇行を働き周囲の前で先生に大目玉を食らったりして、そんなことで周囲から意図的に笑いを起こさせたりする義務教育期間ならではの目立つ人種です。

僕もそんな奴らのことをあの頃は面白いと思っていました。実際そうやって社交性を磨いて将来的に(表に出る行動そのものは姿形を変えて)ああ、あの頃馬鹿やって楽しかったなんて言いながら社会で活躍していく人なんかも多いでしょう。別に僕はそいつらのことは全然嫌いじゃありません。少しうっとうしく感じたこともありますが。

要するに、あの頃はどういう形であれ目立っていれば話はよく通るようになるし、噂だっていっぱいされるようになるし、文字通り、音量的な意味で声さえ大きければ通る世の中だったわけです。

 

 

僕が嫌なのは

その社会ヒエラルキーを義務教育が終わっても、たとえその「社会」の広さが教室や廊下、学校を飛び出してたとえ世界中の規模になったとしても、いつまでもいつまでも是だとしている人たちです。その渦中にいる人も、その渦に加勢している有象無象も(特に後者が本当に)嫌いなのです。

 

わかっていただけましたかね。最初に僕は「インターネットは言いたいことを広域に対し手軽に言える場」だと言いました。そしてそれは2つの意味で発言の水準を下げていったと言いました。先に挙げたその2つのうち後者に関しては、使い方さえ誤らなければただの独り言で済みますし、火に油を注ぎこむこともないでしょう。だから問題視を含んだ言い方をすれば、「その「下がった水準」を悪用してムーブメントを起こせるようになった」と言えるでしょう。あまりしっくりくる言い方ではありませんが、後に書くことで説明がつくでしょう。そして、ここから話を広げますが、その「言いたいこと」が一定の正当な評価の下に価値を帯び、より多くの人に大きな声(重要なのは、これがボリュームではないということです)で言えるようになること。これが「インターネットの中の社会でできるようになったこと・理想版」です。一定の正当な評価の下に価値を帯びた人、とは、例えば社会的地位において大変優れた人(今では逆にこちらの方に、内実である発言価値が伴っていないと批判を浴びる世の中にさえなっています。その「批判している人たち」の発言価値はいったいどの程度保障されたものなのでしょうか。考えるまでもなくとんでもない皮肉ですね)、なにかに秀でた能力があると認められた人(絵なり歌唱なり芸能なり)、などがあげられるでしょう。

さっきの小学生の話でまとめてみましょうか。本来義務教育を終えた人たちが構成する社会で「声が大きく」あるべきなのは、あいつは字がうまいとか絵がうまいとかサッカーがうまいとか、詩が書けるとか、ものすごく頭がいいとか、あまりにも隙のない素晴らしい意見をさらっといえてしまうとか、そういうタイプで「目立ってきた」人たちです。決して先に挙げたようなただのお調子者ではありません(芸人はなんだかんだ言ってものすごく頭がよくないと生き残れませんし発言力が高まっていきません。なんといってもそれが芸として成立しているわけですからね)。

 

さて現実はどうでしょうか。

「ネット上で声を大きくする」という軸で見た場合、明らかに目的と手段がすり替わってさも当然とも言わんばかりの環境が出来上がってはいないでしょうか。少なくとも、僕の周りでは完成してしまっています。

 

それを代表するかのような事例が先ほど目の前で、起こったわけです。

所謂、犯罪自慢とそれをはやし立てる環境が出来上がり、言わずとも公然とそれが受け入れられる体制が整ってしまったんです。その瞬間を僕は見てしまいました。それを構成する要素がすべて僕の目の前で揃ってしまいました。情けなくて仕方がないです。

別にこれが飲み会とかで語られる武勇伝とかならいいんです。便所のネズミのクソ程も価値のない、何も学ばない無能の虚栄心を満たすための、風呂に浮かべた入浴剤よりも早く溶けてなくなるしょうもない話でしかないなら、僕もここまで嘆いたりはしません。

 

ですがインターネット上ではどうでしょうか。言うまでもありませんよね。その影響力と、持続力と言ったら。いつもみなさんの目の前にまざまざと突きつけられているわけですから。

 

渦中の当人が何を考えているのかは知りません。知りたくもありません。僕もこんなことを書きだす人間です。自己顕示欲と虚栄心に一定の理解はあるつもりなのでなんとなくわかってしまう気さえします。

けどそんなことよりも、そのような人間を面白いと感じて、はやし立ててしまう人間が同じ歳の人間、ましてや同じ学府の中に存在してしまったのです。しかも一人や二人ではありません。これはただならぬ悲しさです。僕も弱い人間なのでそんなことがあっても冗談半分でいなしてしまったのですが、あまりにも凄惨です。

別に渦中の当人のためを思っているとか、そういう老婆心でこれを書いているのではありません。あんなやつのことは本気でどうでもいいです。ただ、その周囲を取り巻いた環境のなかにはさすがに大切な友人が山ほどいます。そのエリアですらそのような悪目立ち主義がまかり通ってしまうこと自体が、これ以上なく悲しいのです。

 

僕は今までそんなものを(所謂ユーチューバーや"有名"ツイッタラーの大半はそんなクソみたいな虚栄心で注目を集めていますが)いろんなアカウントでごまんと見てきました。またそれをはやし立てる環境も。目の前で起こったこともあります。そのたびに嘆かわしい気持ちというか、僕がおかしいのかとも思ったりしていました。ですが今度という今度はあまりにも我慢ならないネタで我慢ならない笑われ方をしていたので、つい手が動いてしまいました。

 

自分にもそのような横島がないと言えば確かにうそになります。ただ無意識的にでも、こういう風景を見ると反吐が出る精神をもって育ってきたので、それをできるだけ(後の自分が読んでも)わかるように、思い出せるように残しておきます。自戒の意味も込めて。飲まれないように。

 

 

自分たちのしたこと、わかってるかなあ。

さいこ

なんだか毎日楽しくて気づいたら日付またいだりしてしまいました。嫌なこともいいことも沢山ありました。ということでいつぞやの話をします。これで晴れて三日坊主卒業ですね。本当に危なかったです。
 
 そんなことよりなんか前にハンティングするジョブの条件(なんか突然変なフレーズが浮かんだのでそのまま使わせてください)について話をするとか言ってました。言ったな。あれは嘘だ。
...いや、ごめんなさい。本当に近いうち書くのですが今日はそれより面白いことがあったのでその話をさせてください。
 
 今日は自己分析という大義名分(重要)でちょっとした性格診断をしました。たまたまネットの風に運ばれてきたものを見つけたので興味本位で自分の、あとはその時いた友人3人の分を診断しました。今回使ったのはこれです。
 
 
そして僕の結果がこれ。
 

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 なんとも思った通りの結果です。自分のための努力が嫌いで生まれつきと言わんばかりのごってごての怠惰を背負って生きている僕が「不誠実」と言われることは(※周りの人には正直で、筋の通った誠実な接し方をしたいと思っているので)少し心外ですが(?)これが僕です。思いのほか情緒不安定ではなかったなという印象を受けましたが概ねこんなもんでしょう。
 
(※の部分はおそらく協調性にかかってくれてる、と思いたいです。そういえば過去(昨年2月)に別の診断でこんな結果を出した覚えがありました↓)
 

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 あの頃から比べれば少し自分の心に自由を利かすように意識をするようになりましたがまだまだ気にしいです。臆病です。聞いてないふうに見えて人の話には地獄もひっくり返せるような聞き耳を立てていると思います。人がいる時は無意識にアンテナが立ってたりします。警戒半分興味半分。
 
 
 友人たちと結果を比較する中で、まあみんな割と普通の人なんだなってことで落ち着きました。どうやら怠惰なのは僕だけで他のみんなはとっても勤勉だったようです。羨ましい。
 そんな中でも多少の差異は出るので、そこからみんなで各々の特徴を見出してみました。僕みたいに怠惰の象徴として生きている人、とても勤勉だけど自己ギャップが強く目標やアイデンティティを見いだせなくなっている人、特に協調性の高い人(僕含めて協調性は高い数値が出ました。でなけりゃこんな時期に毎日のように集まって就活頑張ろうぜなんて言い合ったりはしてないかもしれませんね)、自分はしっかり持って意志が固いけど情緒はちょっとふらつきやすい人…
 数値単体で見る結果は主観的、客観的にも十分納得できる(言い方を変えれば無難な)ものでしたが、比べてみるとやはりキャラクターはちゃんと出て、それは各々の生い立ち、家族構成、どういう幼少期を送ってきたかなどというバックグラウンドに左右されてるんじゃないかなんて話に発展しました。一人っ子の僕、末っ子の人、間っ子の人、長男坊…
 割といつも一緒にいる人たちは高校までの学歴も家庭環境もてんでばらばらなので前々から昔話はお互いちょろちょろとしていたのですが、この日はまとめていろんな視点から語りました。そうすることで、ただの数値が意味を持った固有名詞のようなものに見えてきたのです。
 ああいう系のインターネットを利用した自己分析、心理テストなんて今更するもんじゃないだろうという話かも知れませんが、逆にインタラクティブに自己分析他己分析しようというのは、今この時期くらいでしか思い至らないでしょう。
 意外と食いつきがよく、また楽しい相談会のネタになったので、機会があったら今度は別モノをやろうかななんて思ってます。さすがに忙しいかなあ。

くらうど

 前回は怠惰とか、消耗とか、消沈とか、そんなものと闘おうとして武器を色々こさえました。とかく僕は日常の一挙手一投足になけなしの気力を草臥らせがちになってしまうので、そんなちっぽけなことに骨を折っている場合ではないと言い続ける必要があります。
 よくアニメにしろドラマにしろ、創作の世界には空や海など途方もなく大きなものを見上げてはこうして星空/大海原を眺めていると、ふだんのちっぽけな悩みなんて吹き飛ばされるんです――」みたいなことをめっちゃ物語のパーソンオブインタレストみたいな人が言って突然主人公の張り詰めた表情が和らぐ、なんてシーンが見受けられますが、あれをギャーギャー喚いたりウンウン唸ったりしながらやろうとすると前回のような駄文の羅列になるわけです(そうか?)。それに気づいて若干アホらしくなりましたがまあいいでしょう。ちなみに僕が昨晩そんなことを考えながらチャリを漕いでいたら星空どころか途中で雨が降り出しました。いやそこまでの仕打ちはしなくていいんじゃないのかおい。こちとら毎晩2kmの家路だぞ。さむい。
 
 そんなことはさておき、いや半分さておかないのですが(?)、最近また天気が悪くなってきました。三寒四温ってやつですかね。それとも春雨ですかね。まあ彼岸の時期はそんなに天気が良くない印象もありますし仕方ないのかな、という気もしますが、僕の場合何分気圧などが体調を大きく作用する要因になったりしますので、なかなかの困りものです。しかも今はそんなこと言ってられない時期です。もし推し御社の大事な選考場面でこんな天気になったらと思うと今から気が気でなりません。
 実際それは今日も如何なく作用してしまったわけで、頭の回転がまあ悪い悪い。説明会も兼ねた一次選考とやらに参加してみたんですけど、道に迷って遅れた挙句、そんなにいいパフォーマンスが出せなかったかもなあという感想でした。かもなあ、って言ったのは、実はこれが初めての選考場面だったからなんですけど(遅い)。
 
 そこで聞かれてた質問が割とどこでも聞かれるような内容でもあったので、次ではそれについて書き下していこうかな、と思ってます。長くなるので次にします。
 じゃあここでは何話すのかって?
 ごめんなさい。ただのぼやきです。
 そもそもアレを読んでくださった方ならご理解頂けるかと思いますが、僕の場合なにかテーマを設定して書いているほうが稀です。適当にぐだぐだ書き下して、その中からテーマがあればあったでまとめて(まとまってない)、なければぼやいて終わりです。
 
 ということで今回のぼやきは前回メンタルケア頑張ったけど実際にたまにマジで体がついてこないのはどうしたものか」って話にします。というよりなってましたね。ごめんなさい。
"たまに"って言うのはズバリ天気が悪い時です。天気がいい時にだらだらしてるのは自律の不甲斐なさの象徴でしかないんですが、天気が悪い=体調が悪いなのでこれをどうしたものか。生活習慣云々は自明として、でもやっぱりやりたいこととかやろうと思ってたことやりたいじゃないですか。ダメですかね。昨日趣味の謎解きに苦戦して夜更かししたのが悪いですかね。そうですよね。
 とりあえず僕は少しずつ(心の健康を保ったまま)我慢を覚えることから始めた方が良さそうですが、というより色々な物事へのより健全な付き合い方ですよね。これを考えていかないといけない。自分で閾値を決めて、自分で自分をあれこれ管理していくこと。うーん、如何にも「社会に必要そうなスキル」っぽくなってきましたね。クソ当たり前な帰着点に来てしまいました。
 
 概念はわかっています。実行したいんです(たぶん)。何かいいプロセスはないでしょうか。ここが今日のぼやき点でした(唐突)。もう少し安定した自分になれるために、なにか自分にいいことできないでしょうか…

あいどらー

 
(昨日は)にちようび。
 
 なんとなく休みの日のような気がしてしまいます(した)ね。こういう時こそ気を抜いてはいけないのか、こういう時こそいつも以上に気を抜くべきなのか、まあそもそも僕は普段から(僕にとってはそういうつもりはあまりないのですが)居酒屋で真剣に夢やら別れ話やらを語らう傍らのビールのような気の抜けっぷりなので、こういう時こそ根を詰めるべき、だったのでしょう。そんな願いも虚しく、約束の時間まで怒涛の3度寝と相成りました。やはり日曜日はこうでなくては(平日もろくに頑張れないくせに何を言っているのやら)。
 
 
 周りの話を聞く限り、どうも僕相当燃費が悪いらしく(食事の話ではないです)、同じ仕事量を稼ぎ出すのに人1倍睡眠が必要なようなんです。
 ナマケモノのフレンズ?
 そうかもしれません。
 
 そこで困るのが来年度以降の生活です。ついでに僕の設定をもう少し書き足しましょう
 
  • 低血圧(起き抜けの食後で上100超えません)
  • 低血糖(特に夏場、お茶飲むとふらふらしだします、特に烏龍茶はめまいがします)
  • 貧血(立ちくらみとお友達)
 
 お互い相関しているらしいですが、こんなんで素敵な朝を迎えられるのは10時間寝たか一切寝ていないときくらいなものです。あとアホほどいい酒飲んだ時とか。
 
 このくらい割と誰にでもある。甘えんなちゃんと朝起きろ働け擦り切れろ死ね。って思いもあるかと思います。僕もよく思います。でも怖いですよね同調圧力って。あと他人への体験共有の強要。これは僕もついついしたくなります。「デキるやつに体力のな奴はいない!」とか書いてある本もあります。正直心が折れました。
 別に僕自身これがいい悪いって言うつもりでもないし(言えませんね)、同情してほしいわけでもありません。と言うと突き放すようで嫌なのですが、なんとも有り難さ3:申し訳なさ7くらいな感情になってしまうのでそれはそれで辛いのです。ごめんなさい。
 
 話が逸れました(本筋なんてあるのか)。そんなわけで僕が"普通の大人"として生きていくにはなかなかハードルが多くて高いような気がします。怠惰な性質と体質の問題、どちらにどう相関があるかわかりませんし、そもそも相関があるのかどうかわかりませんが、怠惰とは言いつつ反面怠惰な己をひたすら自責しながら生きていたりもします。それが正しいのかもわかりません。こんな感じで最近は特にストレスが多いです。書いてる僕も頭がこんがらがって負のスパイラルに陥りそうになります。
 
 
 ここで一呼吸おいて。
 
 
 ふう、ということでここからが打開策になるのですが、最早言うに及びません。こんなこと責めたってどうにもならないことは自明でしたね。ここではそもそもそういう過程も含めて嘘偽りなく置いていくつもりだったのでこれでいいと思っていますが。
 何を言いたいのかというと、明日なにかひとつ進められたことがあればいいんじゃないのか、ってことです。1個でもいいですし、いっぱいでもいいですし。今日は奇跡的に早く起きられた〜と思うならできる範囲でそうしていこう(でも明日はもう無理かもな)とか、今日はこれやったぞ、とか、そういうものがなにか一つ以上、あればいいと思うことにしています。やることなすこと人より死ぬほど遅いのは知っています。ペースがガタガタなのも知っています。ですがそれは過去のサンプルを取ってきて言っていることです。現状私たちには残念ながら未来しかやってきませんし、僕にもそうです。
 確かに、今までそんな体たらくばかりを重ねてきたお前の人生がこの先良くなることなんてないぞと言われるかも知れません。しかしそれは予測に過ぎません。繰り返すようですが、残念ながら現状私たちには未来しかやってこないのです。ならそいつを利用して少しずついいことをしたり、少しずつ反省点が生きたと思える1日を過ごせたなら、それは当人にとってはよりよい人生のパターンの構築の一助になってくれるのではないでしょうか。処世術ならぬ、処我術、とでも言いましょうか。そんな感じです。一言で言えば、常に許して、たまに甘やかす、みたいな。ちょっと意味わかりませんね。思い付きで言っているので許してください。
 
 僕の人となりを見ている人ならきっと「何をこいつは能天気なことを」と思うでしょう。そんなあなたに残念なお知らせ。僕はもう少し前に自己否定感の限界ラインに来ていました。元々自己否定は得意な方で、裏を返せば自分に甘ったれるのも得意ということです(ここは今でもあまり変わらないかもしれません。自戒)。ピンとくる人にはくるかも知れませんが、このへんの話は別に書くでしょう(たぶん)。そうやって出来上がる人格にろくなものはありません。結局自己否定というものは負のスパイラルしか生み出してくれません。片足スタンドの自転車をスタンド立てっぱなしで漕ぎ続けるようなものです。あれがもし擦りきれて折れたら自転車立ちませんよね。僕はついこの間までまで気付いたらそういうことをしていたのです。危うく再起不能になるところでした。
 
 そこで、もう1回これを頭から読み返します。否定するのでも、甘やかすのでもなく、受け入れること。こんな考え(自己否定感から生ずる負のスパイラル)を繰り返す方が今からの自分にとっては無駄になること。世の中が面白くなるはずがないということ。
 
 僕は小さい頃から今まで、"反省"という言葉を星の数ほど聞いてきました。世界中の女性の数より星の数に近いかもしれません(過言)。しかし"反省"ってそんな簡単な事じゃない、寧ろ、めちゃくちゃ難しいんじゃないかってことにこの歳になってやっと気付けたような気がします。僕の場合、こういう思考の落とし穴をかいくぐらなければ"反省"という領域にたどり着けない。次に進めない。頭に蛆でも湧いてるんじゃないかってくらいウジウジしてますね。笑えますが、本当の話です。
 
 さて、こんな当たり前のことにこれだけの文量を割いてきた言葉足らずの僕ですが、こうでもしないと生きる気力が湧いてこないのも僕です。
 
 最後にまた話を逸らしますが(鬱陶しい)、当たり前のことでも自分で一回やってみないと"わからない"んですよね。百聞は一見に如かずなんて諺があるのでいちいち掘り下げるつもりはありませんが、ついつい忘れがちなめちゃくちゃ大事な事だと思ったので、メモしておきます。

こんせんと

強みとか、弱みとか。
意気込めるとか、そっぽむくとか。追い込むとか、逃げ出すとか。
 
そんなことをあっちこっちで問われ、また自分に問い返し、を繰り返す中で、自分の総合集中力、とでも言いましょうか。それとにらめっこする機会が多くなりました。さて。
 
 
 僕は幼少期、注意力がなさすぎると言われていました。代表的な例を挙げるなら、目の前のコップに牛乳を注いでいるのに、テレビの音が聞こえてきたがばっかりにそっちに目線がいき、その瞬間牛乳をこぼすとか、そういうレベルです。「あっ、UFO!!」とかにも引っかかったと思います。あの氷の妖精も馬鹿にはできません。そこのあなたも僕になぞなぞを出せば僕の目の前から姿をくらますくらい容易なことでしょう。
そんな素晴らしい注意力を持った僕ですが、それって反面、集中力はそこそこなもんなんじゃないかな、と思ったりしてます。
 注意が(無意識的に)すぐ違うところに注がれてしまうということは、あちこちに集中力のベクトルが動いてしまうということであって、それ1つの集中力はなかなかのもののような気がします。テレビを見ながら牛乳を注げないということは、何かのきっかけで完全にテレビに集中してしまうということではないでしょうか。問題は、無意識下で何かの拍子で集中力のベクトルが動いてしまうということです。そして、同時に二つ以上の注意を向けられないということです。
 幸い(?)、今はそこまでひどくありませんが、代わりに"気が散る"ことが多くなりました。もとよりなにがしかの強制力が働いたものに対して(やれと言われたもの)は全く集中力が働かないのですが(ただの勉強嫌い)、そうではなく意識的に集中状態を作ろうとしても、何か他にものを考えたり何かを見やる余地が出来てしまいなかなかそれができなくなってしまいました。
例えば僕の大好きなことをしている最中――――ここでは音ゲーとしてみましょう。一曲の演奏最中に無我夢中で取り組めていることって、実は体感で半分くらいしかありません。困ったものです。
 音ゲーに限らず、たとえやる気に満ち溢れて「よし、今からやるぞ」と思ったことに対して意識的に集中力を生み出すことが本当に難しくなりました。本当に困ったものです。
そのくせ、よくわからないタイミングで自分でも考えられないようなスピードで作業を終わらせてしまったり、ありえない分量のものを書いたりもしています。追い込まれた時は例外として、それがあまりにもランダムなタイミングで訪れるので、自分でも全くコントロールができません。
 
 結局「なにかわかったことがあったから書いてみよう」テンションで書き始めておきながらお悩み相談テンションになってしまいました。それもこれもこれを書いている途中で集中力がちょこちょこ何処かへ行っていたからなんですね。なんとも困ったものです。
 最後に気付いたこととして。集中力と注意力、使い分けもあまりできてないことに気付きました。単語に対する思慮も足りていない気がします。そういえばとあるアニメでスナネコのフレンズを見たとき非常に僕の共感を呼びました。スナネコは熱しやすく冷めやすいそうです。僕は後からふと思い返して根に持つこともよくあるので、ある意味スナネコよりめんどくさいですね。でもまあ、騒ぐほどでもないか。。。

はじめに

こんにちは。時候の挨拶というものは難しいもので、とかく普段から日本語を話そうにもとりあえず僕なりに思い付いた並びでしか文字を書くことも話すこともできないので、なかなか伝えるというのは難しいと感じます。こんな書き出しをしている段階で、察して下さい。

 

 とりあえず世間は就職戦線真っただ中(と言ってみたいだけ)で、当の僕も今スーツで肩を凝らしながら斯様な無駄な生産活動を続けている次第です。
なぜこんな無駄なことをしているのでしょう。
 単純な話で、今やれば無駄じゃないと思ってしまったからなのです。
 どうにも就職活動というのは、自分の人生に対して、自分という存在に対して見返ってそれを表現する最大(にして最後の?)チャンス(茶番を演じるとも言っている方がいますね)らしく、まあ普段から自意識過剰にあれこれと気にして考えている(振りをしているだけかもしれない)僕にとっては格好の押し問答タイムなわけです。押し問答とわざわざ言わずとも見てのとおり書いていることがぐらぐらですね。もとよりこんな感じなので自分でも何を考えているかわからなくなって結局全消し(忘却)することだってしばしばあります。結局自分の思考に溺れて甘えているだけなのです。
 とは言いつつ、じゃあなんでわざわざこんなどうあがいても「明日の僕でさえ振り返りたくなくなるような過去の遺物("黒歴史"は死語っぽいのであえて使いません)」にしかならないようなものを書き始めてしまおうかと割り切ったのかというと、先述したとおりこれが最大で最後のチャンスだと思ったからです。
ちょっと遅くないか、よりによって今やらなくてもよくないかとも思うでしょう。そういう僕もいます。物事に動機やきっかけ、「いいタイミング」を求めたがる僕がいます。しかし何事もそうやって動こうとしてこなかったのはそういう僕です。実は今までこういうものを書き残そうと思ったことは幾度となくあります。そこで「どこでそんなことするんだ」とか「書き出しどうする気なんだ」とか「そもそもそんなもん残してなんになるんだ」とか何かと理由をつけて、手を動かさなかったのはそういう"なんとなく"とかいうものを一番嫌うふりをしてただ腰を重くして言い訳ばかりを連ねてきた僕がずるずるとこの日まで独白の日を延ばしてきたのです。
 最近ようやっと僕はこのショルダーフォンよりも重い腰を上げる決心をつけました。結局ケツをつつかれて、何かに追われるようにやり出したようなもんですが(というかそもそも、こんなものが誰かに見られるともあまり思っていませんが)、とりあえず思いつくまま自分の思考過程、物事の捉え方をできるだけあるがままに、自分のために残していきたいと思います。
 
 そういえば今ちらっと言いましたが、これが誰かに見られるとはあまり思ってません。僕はあまり普段から恥を知ったタイプではないと思っているのです(正確な表現をするなら、生きているだけで恥ずかしくて仕方ないとか思いつつ、結局その場の勢いに任せて言いたいことだけ言って、あとからいろいろ思い返して顔色を窺いまくるタイプ)が、この場ではより「どうせ誰も見てないだろ」ヅラで書き散らします。万一誰かに見られた時のために、こういう文体を取っているわけです。
 
 さて、万一、ここまで読んでしまった人のために今言ったことを「僕の取り繕った体」をひっぺかして訳しましょう。
 
 僕はこれを誰かに読んでほしくて仕方がありません。ですが、あまりに僕の「自分自身の魅力」に(ほぼ生まれつき)自信がなく、かつ「僕に魅力がないこと」事体過去の様々な事例が数字とともにそれを示している(例:Twitterでいくらメンション乞食をしても全然リアクションが返ってこない、など)ため、「まあ読まれてるはずなんてないけど??????ここまで読んでくれたんなら礼節のために但し書きみたいなことしとこっかな~~~~~~」などという不遜極まりない態度でこれを誤魔化してます。
 
 結局のところ、僕は積りに積もったまりに臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のためにこのような悪態を自然と取るようになってしまったのです。僕は自己顕示欲の塊です。
 
 
最後に。
 
読んでくれた人がいたなら、心から感謝しています。リアクションをくれたなら。幸甚これに勝るものはありません。
 
ということで僕のいろんな面を書き残したつもりですが、通り一遍でつまらないかもしれません。これからもいろいろ書きたいことができたら書くつもりですが、やはり通り一遍の感性によるものでつまらないものと見えるかもしれません。とりあえずこういうノリでぐちゃぐちゃならぐちゃぐちゃのまま、僕の頭の中をできるだけ置いていこうと思います。